経済成長と幸福について ─ 人口減少社会における「豊かさ」の再定義 ─

雑記

これから書くことは基本的に妄想であり、個人の感想でしかない。データがあるわけでもないただの感想であることを留意して読んでほしい。

なぜ書こうと思ったか。備忘録とストレス解消、それ以上でもそれ以下でもない。強いて言うならば、もうどうすることもできなくなったからかもしれない。自分よりも若い世代からの非難を避けるため、というか一個人ではどうすることもできない。

ただ、一つだけ確信していることがある。経済学を学び、様々な経済思想家の著作を読み、自分なりに考え続けてきた結論として、日本経済の問題はシンプルだ。そして、その解決策もシンプルだ。しかし、解決策がシンプルであることと、それが実行可能であること、さらにそれが「幸福」につながるかどうかは、全く別の問題なのである。

第1章 GDPという指標への疑問

私の立場

本題に入る前に、自分の立場を明確にしておく。私は「経済成長=人口増加」だと考えている。これは一般的な定義ではなく、あくまで私の主張だ。ネットで検索すればいくらでも別の定義は出てくる。一般的には経済成長とは、一国の経済規模が時間とともに拡大することを指し、通常はGDP(国内総生産)の増加率で測定される。

しかし、私はこの定義に根本的な疑問を持っている。

GDPの操作可能性

なぜそう考えるか。GDPはいくらでも操作できる。お金を刷ればGDPは上がる。だから実質GDPを見ましょうという話になるが、それでも無駄に生産して在庫を積み上げればGDPは上がる。それは成長と言えるのか。

さらに現代ではGDPの7割がサービス業だ。私は物質の生産こそが需要だと考えている。サービス経済を「成長」としてカウントすること自体に疑問がある。人口が増えていれば物質的には確実に増加しているので経済成長している。逆もまた然り。だからGDPではなく人口で見るべきだというのが私の立場だ。

ピケティは膨大なデータで格差を「証明」した。しかし、そのデータ自体が実体を捉えているのか。数値をどれだけ精緻にしても、本質には届かない。GDPも、生産性指標も、すべての経済指標は数値化の限界を抱えている。その中で人口は、数値であると同時に「物質的に存在する人間」そのものだ。抽象化されていない唯一の経済指標と言えるかもしれない。

真にシンプルな原理

真面目な話、純粋に考えて人口増加以外に成長はないと思う。人がいるから生産がされ、消費がされる。これ以上シンプルな原理はない。

主流派経済学者は様々な反論をするだろう。「技術革新で一人当たり生産が増える」「AIやロボットで自動化できる」「海外市場に売ればいい」「一人当たりGDPが増えれば豊かになる」。しかし、どれも「誰が買うのか」という問いに突き当たる。供給側はいくらでも効率化できる。でも需要は人間からしか生まれない。

第2章 日本経済の構造的問題

社会保障制度という根本問題

結局のところ何が問題なのか。社会保障制度、これに尽きる。普通に考えて税金が高すぎる。

国民負担率(税+社会保険料)で見ると日本は40%台後半、さらに赤字国債による将来負担を含めた潜在的国民負担率では50%を超えるという試算もある。北欧並みの負担をしながら、北欧並みのリターンがない。

いわゆる可処分所得、つまり自由に使えるお金が少なすぎるのが問題だ。

なぜ可処分所得の減少が問題なのか

需要が刺激されないからだ。みんなが物を買えない状況そのものがまずい。需要がないから物を作らない、物を作らないから経済成長しない。単純な構造だ。

さらに可処分所得が減っている中で、消費性向(自由に使える金のうち実際に使う割合)も減少している。お金がないし、お金を使わなくなった。

なぜお金を使わなくなったのかについては、本稿では議論の対象外とする。節約志向だとかそんな感じでまとめられることが多いが、多文化主義の現代において個人がお金をどう使うかは議論しても意味がない。消費性向が減ろうが、大本の可処分所得もしくは年収が増えていれば問題ない。結局最低限の生活はするので。

少子化と需要の関係

ここで少子化の話をする。少子高齢化が良いとか悪いとかそういう話ではない。

子育ては個人ができるほぼ最大の出費だ。住宅、車、教育費。つまり少子化が進むと物質的な需要が減る。少子化が先で経済が悪くなったのか、経済が悪くなって少子化が進んだのかは正直どちらでもいい。使えるお金が少なくなって、少子化で需要も減っている。それが事実だ。

「高齢者の消費があるじゃないか」という反論があるかもしれない。しかし高齢者が新車を買うか? 家を買うか? 高齢者の医療・介護消費は「維持」であって「拡大再生産」ではない。子育てという再生産こそが一番の消費なのだ。

生産性向上という幻想

「生産性向上で成長できる」という反論もあるだろう。しかし生産性が向上したところで需要が増えるのか。私は増えないと考えている。

生産性向上で生産量を増やせるが、実際には行われていない。トヨタのジャスト・イン・タイムが基本になっているのを見れば分かる。売れる分だけ作る。供給側がいくら効率化しても需要が増えなければ意味がない。

これはケインズの視点だ。「需要がなければ生産しても意味がない」という発想。供給側(生産性向上)ではなく需要側を見なければならない。

この章の結論

渡されるお金も減っているし、使う人も減っている。それ以上でもそれ以下でもない。日本経済を良くしたいのであれば社会保障に手を付けて税金を減らしていくしかない。

第3章 日本がこの先生きのこるには

(表題が言いたかっただけである。)

現状把握

人口は毎年50〜80万人減少。労働力人口はさらに急速に縮小。消費者も減る、納税者も減る。これはどれだけ頑張ろうが変わりようのない客観的事実だ。

私の定義では経済成長=人口増加だ。日本の人口減少は不可逆的である。よって日本経済が「成長」することは原理的に不可能だ。

これを合理的に解決する方法は見当たらない。財政も債務残高GDP比260%超で先進国最悪。社会保障も支える側が減り、支えられる側が増える一方だ。

主流派が見ないふりをしていること

先進国はすべて人口停滞か減少に向かっている。中国も減少に転じた。この前提で「経済成長」を語ること自体が矛盾している。でもそれを認めると政策が成り立たないから、見ないふりをしている。

私の主張を認めると、先進国の経済政策の前提が崩壊する。金融緩和で成長できる? 人口減ってるから無理。生産性向上で成長できる? 需要がないから無理。イノベーションで成長できる? 買う人がいないから無理。全部否定される。それは政策立案者にとって都合が悪い。

学術的にも都合が悪い。主流派経済学者のキャリアは、成長を前提とした研究で成り立っている。「そもそも成長という前提がおかしい」と言われたら、自分たちの仕事の意味がなくなる。だから無視する。反論すらしない。

第4章 経済成長と幸福

問いの転換

ここで問いを転換したい。経済成長=幸福なのか?

日本経済はもうおしまいだ。私一人では何もできない。今までの世代が悪かったと言っても仕方がない。だから、経済成長を前提としない幸福を考えるしかない。縮小していく経済の中で、自分なりの幸福を探す。それしかないのではないか。

二つの領域

経済学と幸福は別の領域だ。経済学は合理であり、測定可能であり、人口×生産性で表される。一方、幸福は非合理(スピリチュアル)であり、測定困難であり、意味や関係性や充足感で表される。

この二つを混同することが多くの誤りを招く。「経済成長すれば皆幸せになる」は誤りだし、「経済が縮小したら不幸になる」も必然ではない。「GDPを上げることが政策目標」というのは手段と目的の混同だ。

子供が増えればそもそも経済学的には成長をする。ただし成長するから幸せだとはならないし、逆も然りだ。

アダム・スミスへの回帰

私は古典派が好きで、そもそもアダム・スミスが好きだった。彼はまず『道徳感情論』(1759年)を書き、その後に『国富論』(1776年)を書いた。つまり「幸福とは何か」が先にあって、経済学はその手段として後から来たのだ。

現代経済学はこれを忘れた。手段が目的化した。GDPを上げること自体が目標になり、「何のために?」という問いが消えた。スミスの出発点が失われている。

スミスの時代を想像してほしい。人は簡単に死ぬ。物が足りない。だから物を増やす=生存率が上がる=幸福という等式が成り立つ時代だった。

しかし現代は違う。人は簡単には死なない。物は余っている。なのにまだ「物を増やせ」と言っている。前提が崩れているのに、結論だけ残っている。

第5章 では、どうすればいいのか

論理的な解決策

なんでこんな簡単なことも分からないのか不思議だ。日本経済は限界だ。じゃあどうすればいい? 人を単純に増やせばいい。であれば極端な話、大量に子供を増やす政策をとればいいのだ。

しかし、それは人間を経済成長の手段として扱うことだ。子供を産むことがGDPのため、国のため、経済のため。それは幸福なのか。

歴史的に言えば、戦時中の「産めよ殖やせよ」がそうだった。国策としての人口増加。あれを今やるのか?という話になる。

深い皮肉

ここに深い皮肉がある。経済成長のために子供を増やそうとすると、子供は手段になる。幸福を諦めることになる。結果的に子供は増えない。

逆に、幸福のために経済成長を諦めると、家族を作る余裕ができる。結果的に子供が増えるかもしれない。

「簡単なことが分からない」のではなく、分かった上でやらない選択をすべきなのかもしれない。

手放すことで得るもの

今後の日本がすべきことは経済的な豊かさを手放すことだ。24時間サービスをやめたり、客に対する手厚いサービスをやめたり、コンビニをやめたり。それができるかできないかで変わっていく。

日本の「過剰サービス」は負債だ。24時間コンビニ、即日配送、「お客様は神様」文化、過剰包装。これらはすべて「人的リソースの贅沢な使い方」であり、人口が増えていた時代の遺産だ。縮小社会では維持不可能である。

ヨーロッパを見てほしい。日曜は店が閉まる。昼休みは長い。サービスはそこそこ。でも生活は回る。彼らは「不便」を受け入れることで、別の豊かさ(余暇、家族との時間)を得ている。

問題は、サービス低下を「劣化」「衰退」と捉えてしまう心理だ。便利さを手放すことへの抵抗が強い。これは経済政策ではなく、価値観の転換の問題だ。

日本人の課題

個人的な視点だが、日本人はこの転換ができないと思う。日本人は傲慢なのだ。便利さを「権利」だと思っている。サービス低下を「許せない」と感じる。自分たちは特別だという無意識の前提がある。

人口が減っても、経済が縮んでも、今までと同じ生活水準を求め続ける。それを支える人がいなくなっても。

手放せない場合に起きることは三つ。移民に頼るか、一部の人に過剰な負担がかかるか、システムが強制的に崩壊するか。どれも痛みを伴う。自発的に手放すより、強制的に奪われる形になる可能性が高い。

終章 経済成長だけが幸福ではない

日本は世界に先駆けて「成長なき社会」の実験場になる。それが悲惨なものになるか、別の豊かさを見出せるかは、経済とは違う次元の話だ。

結果的に幸福になり、それによって適正人口になり、人々は今まで受けていたサービスを手放すだろう。というか手放さざるを得なくなるだろう。でもそれ以上に幸福なことはたくさんあると思う。家族を純粋に作っていくことがもっとも幸福なんではないかと思う。

そういう事を含めると、別に日本経済に対して悲観すべきでもないという話になる。

経済的には冷徹に判断する。しかし人生の豊かさは別のところに求める。自己投資、スキルの獲得、家族との時間。この二層構造を持つことで、市場が崩れても、経済が縮小しても、動揺しない軸ができる。

手放せる人から楽になっていく。手放せない人は、縮小する経済の中で苦しみ続ける。個人レベルでも社会レベルでも同じ構図だ。

答えは出せない。ただ、経済成長だけが幸福ではないはずだ、という問題提起でこの文章を終わりにしたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました